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チャイコフスキーコンクールの思い出

PIANO21からの新譜、カツァリスアーカイブシリーズ「カツァリス・ライブ・イン・モスクワ」は、1970年のチャイコフスキーコンクールのライブですが、中のライナーノートに珍しく彼自身のコメントが「モスクワの思い出」として載っています。ちょっと面白いので簡単に紹介します。訳は私とCopin姉さんです。

「モスクワの思い出」

若いソビエトのピアニストが数々の国際ピアノコンクールで優勝をかっさらっていた時代、私は伝統あるチャイコフスキーコンクールの舞台に自らの身を投じるということを思いつき、非常に興奮しました。そこでなんの自信もサポートもないまま1970年6月にモスクワ行きの飛行機を予約しました。
私はパリ音楽院を卒業したばかりで公衆の面前で演奏した経験などあまりありませんでした。そのような自分で決めたチャレンジのせいで、最初の2日間はあまり食欲がなく、眠気もおきなかったのです。とはいうものの、ロシアの素晴らしいホテルでは、ほぼ毎日、絶品モスクワ風ステーキのオニオン添えが目の前に出されるやいなや平常心を取り戻していたのでした。

第一次予選は、各参加者がそれぞれバッハの前奏曲とフーガ、ハイドン、モーツァルトのソナタ、ショパン、リストのエチュード、ロシアのエチュード、そしてチャイコフスキーの四季より1曲を弾きました。
そして、まさに最初の演奏ステージに出る直前、私の前の参加者がリストの鬼火をすばらしく弾くのが聞こえました。私もこの難曲を弾く予定にしていたのです。緊張が高まりました。コンクールのレベルは私には非常に高いようで、そこで、私は最後の瞬間に曲順を変更することにしました。指慣らしの代わりとしてバッハのプレリュードとフーガを弾くことにしたのです。そう、まさにこの曲はなかなか難しい曲ですが、高名な審査員であるエミールギレリスはもとより、聴衆や取材プレスをも感動させるという保証はないものです。そして私は舞台に上がると、少しずうずうしく、むしろこれ見よがしにオクターブをひけらかすようにショパンのエチュードOp25-10を弾き、大きなチャンスを得たのです。
驚いたことに、聴衆は大喝采でこたえてくれ、審査員に良い印象を与えるであろう希望をいだかせてくれました。それから私は、リスト、ラフマニノフ、チャイコフスキー、バッハ、ハイドンと続けました。

その後休憩時間になり、気がつくと私はモスクワ音楽院の中庭で群集たちに取り囲まれて熱狂的な賞賛を受けていました。その上、高名なピアニストでモスクワ音楽院の教授であるLev Vlassenko(レヴ・ヴラセンコ)さんがわざわざ彼のオフィスから駆けつけてくださり、暖かい賛辞を流暢なフランス語で表してくれました。特に覚えているのは「このショパンのオクターブのエチュードをそんな小さな手でどうやって弾いたのかね」と彼はいいました。

私はすぐに聴衆の人気者になってしまいました。2次予選では、このCDに収められている曲のいくつかを弾きました。加えて参加者のそれぞれの出身国のお国物を弾きました。私は、サンサーンス、ドビュッシー、フォーレ、ラヴェルなどではなく、ブーレーズのピアノソナタ第2番を弾きました。
奇妙なことに、ショパンのエチュード演奏後の割れんばかりの拍手とブーレーズの曲はオリジナルテープに残っていません・・・。ブーレーズはソ連の人たちの好みには合わなかったのでしょう。この不思議な欠落の理由はCDをお聴きになった皆様方の判断におまかせします。

いずれにせよ私はファイナルにすすめませんでした。ファイナルでは、チャイコフスキーの1番のコンチェルトとラフマニノフの3番を弾く予定でしたが・・。

優勝はソ連のウラディミール・クライネフと、イギリスのジョンリルでした。ジョンとは私はこのコンクール中に親友となりました。
彼はベートーベンの3番のコンチェルトをチャイコフスキーの1番とともに選択しました。
このコンチェルトは、いまでも私がもっとも良く弾く機会のある曲のひとつですが、コンクールに向いているとは思えませんでした。私はジョンにブラームスの2番やラフマニノフの3番などもっといい曲を知らないのかとたずねました。確かに彼は多くのレパートリーを持っていたのでブラームスの2番をひくことにしました。
私は彼をコンクールの事務局に掛け合うようにと励ましました。すると事務局側は、審査委員長のエミールギレリス次第だと答えたのです。私は彼にギレリスに会いに行って話すようにとプッシュしました。そしてめでたく彼の要望が通りました。
審査員も聴衆も彼の最後に変更して演奏したブラームスの2番の演奏に感銘し、そして充分に価値ある勝利を確実にしました。

1960年代の終わり頃、私はプロコフィエフの雄大なコンチェルトNo.2にまさに出会ったところでした。それまで勉強したことがないにもかかわらず、モスクワ音楽院の教室で、私は第一楽章のカデンツァを叙情的なテーマで即興演奏していました。するとドアが突然開き女性の声が響いたのです。
「そんなふうに弾いてはいけません。夫のオリジナルの楽譜通りに弾いてこそ価値があるというものです。」それはもちろんプロコフィエフ夫人でした。 また音楽院の階段ではショスタコーヴィチに偶然会ったことも覚えています。

ブーレーズの曲に関しては、2分30秒くらいですが、突然記憶が飛んでしまい、最後の1分くらいは即興演奏してしまいました。コンクールが終わったとき、ある審査員が私をほめてくれました。「特にあのブーレーズ゙は・・」 シプリアン・カツァリス


いつものプチ自慢も炸裂しつつの昔話でした。
このCDはもう国内でも発売中のようです。
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